報道・表現・宗教の自由とは。

このごろ、「自由」について考えることが多い。

報道の自由の名のもとに有名人の不倫を報道するマスコミ。
弾劾裁判で罷免された裁判官が訴えていた表現の自由。
神の名を借りて、信者に金を無心し、信者及び関係者の生活を壊していく宗教活動。
報道の自由は、有名人のゴシップをみんなで楽しむためにあるのか?被害者家族を傷つける言動に与えられる表現の自由とはいったい何だろう?
金を無心しているのが神ではなく、神の名をかたる個人だとみんな知っているのに、宗教の自由の名のもとに搾取が行われている。

憲法第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
憲法第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
② 検閲は、これをしてはならない。 通信の秘密は、これを侵してはならない。

憲法が保障する自由とは、他者を傷つけないことの上になりたっているはずなのに、自由をという言葉を、他人を傷つけることの言い訳、免罪符のように使っている。

私たちが今享受している自由は、人類の長い歴史の中で、夥しい犠牲の上に得たものなのに、私たちはその自由を濫用している。

こんなことが続けば、私たちは自由を手放さなければならないことになる。あるいはもう私たちは自由を失いかけているのかもしれない。

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